2021.03.31ブログ
桜とデジタル
余すところなく咲く桜。咲き誇る、といったような風情でもなく、少し恥ずかし気にしかしながら妖しい魅力が漂う、どこかしら異次元のような空間を醸し出しています。
自然は必ず巡っていて、満開になる前から少しずつ散り行きますが、はらはらと散るとは見事に表現したもので、ひらひらでもなく、ばらばらでもなく、かさかさでもなく、やっぱりはらはら。
満開の桜よりもはらはらと散り行く様に古から思いを寄せてきたのは、日本人の心情なのでしょうか。満開に咲く桜の様子を表すオノマトペはなかなか思いつかないけれど。
さて、先日来、模擬面接が始まり、zoomでの面接をしています。
パソコン越しに面接をするわけですが、何より苦痛なのがアイコンタクトできないところと相手全体を感じ取れないところ。
パソコンで相手の目を見て話しても絶対目は合わず、カメラ目線で話すと、相手の目は見えません。また居ずまい、たたずまい、雰囲気、といったものは、実際に対面しているときの数分の1しか感じ取れません。
あっという間に接続できて相手と話せる、デジタルの便利さは勿論素晴らしいことだと思うのですが、デジタル化が進んでいくと、目に見えるものの奥にあるもの、見えないものに対しての感性や想像力を深めることが難しくなると思います。
間合いや空間、気、目に見えないものを大事にしてきた文化を改めて意識して繋いでいかないと、1か0のデジタル世界の中に埋もれてしまう心配があります。
ものごとは、すべてファジー。1と0の間に無限にあって、正解不正解もありません。その無限の中をどう想像するかで次へ歩むエネルギーは生まれます。
勿論、忖度や慮るが行き過ぎて、モノを言えない文化は変えていかなければなりません。「言えない・言わない・言わせない」は脱却していかなければなりません。
しかし、散り行くからこそ、今ある生命を意識してきた、今を愛でて歌に詠んできた心情を大切にして奥なる感性を大切にしてゆきたいものですね。
はらはらと散り行く桜を前に今日もパソコンに向かいます。