2018.11.18コミュニケーション
まずは言葉にする!
「男は黙って〇〇ビール」
これがわかる方は、それ相応のお年の方だと思うのですが、
ペラペラ話すことがどちらかというと美徳とされてこなかった日本人のDNAはなかなか色濃いものです。
今年は「忖度」という言葉が流行りましたが、「言わずともわかる」ということが素晴らしいこととされてきた文化はなかなか変化しづらいものですね。
同一民族で長く生活してきた日本だからこその結果でしょう。
阿吽の呼吸で話ができた時代は、言葉少なくとも理解し合えたかもしれませんが、それがゆえにきちんと言葉にして相手に伝わる話し方をすることが苦手が方が多いのも事実です。
話さなくても通じるがゆえに、今度は話さなくなる、話せなくなる、という事態になってきます。
長年連れ添ったご夫婦等、「今更、何を話すの?話すことなんか何にもないわ。ほとんど会話なんかない。」とおっしゃる方もあります。
話さなくなると、考えなくなります。
自分が何を感じ、どう思い、どう考えているのか、ということをきちんと言葉にしないと、本当は互いを理解できるわけはありません。
まずは、言葉にする、ということが大事です。
「話せない」、というのは、「話していない、言葉にしていない」結果でもありますし、極端に言うと、「考えていない」結果でもあります。
また、超少子高齢化の今、若い人の人手不足で立ち行かなくなる現実が待ったなしの中、外国人の方との接触はますます増えてゆきます。
どのようにきちんと日本語を話すのか、改めて日本語というものを日本人が見つめ直すよい機会なのかもしれません。
日本語の伝わりづらい点の一つとして、日本語の語順の問題もあります。
主語、動詞、と必ず来る英語等と異なり、主語が何やら、しかも動詞がいつになったら出てくるかわからない日本語は、わかりにくくなる要素が多くあります。
「~ああでね、~こうでね」、と続くと「誰が何をしたの?」となります。
「机の上にあるその赤い本を取ってちょうだい」を
英語の語順にすると、「取ってちょうだい、私に、赤い本を、上にある、その机の」というようになります。
短い文なので、どちらも語順が違うだけですぐに理解はできますが、思考の過程が異なります。
英語のように「取ってちょうだい、私に」とまず言われると、何か私に取るという行動をしてほしいんだな、と行動の準備をします。
ところが、「机の上にある~」から始まると、最後まで聞かないと、頼まれていることもわかりません。
行動の準備ができません。
語順というのは、思考過程。
この思考過程の差が、思う以上に日本語が行動の言語になりにくく、わかりにくいことにつながっているように思います。
主語、動詞、と「私が、~をする」という行動で思考する言語と、主語もなく、ぐるぐると周りから説明してから動詞が最後にくる言語では、伝わりにくくなるのも当然のこと。
情的な言葉は山ほどあり、豊かな感情の機微は表現できるけれど、反対に日本語は残念ながら行動の言語にはなりにくいもの。
反対に「私が~する!」ということを常に言う方があると、我の強い方だと敬遠したくなる気持ちもまだまだ強いものがあります。
しかし、敢えて言うなら、これからの時代、「どう考えているのか」言葉にしなければ、思考停止になります。
何をどう感じ、思い、考えているのか、きちんと語る、語る、語る。
語ることで、エネルギーも出ますし、互いの考えから次の新しいものを生み出す力も出てきます。
ほとんどの方が無言の会議みたいなムダな時間はやめましょう。
結局誰もが無責任になります。
自分は何を考えているのか、もっと語ってゆきましょう。これからの社会のためにも。
これがわかる方は、それ相応のお年の方だと思うのですが、
ペラペラ話すことがどちらかというと美徳とされてこなかった日本人のDNAはなかなか色濃いものです。
今年は「忖度」という言葉が流行りましたが、「言わずともわかる」ということが素晴らしいこととされてきた文化はなかなか変化しづらいものですね。
同一民族で長く生活してきた日本だからこその結果でしょう。
阿吽の呼吸で話ができた時代は、言葉少なくとも理解し合えたかもしれませんが、それがゆえにきちんと言葉にして相手に伝わる話し方をすることが苦手が方が多いのも事実です。
話さなくても通じるがゆえに、今度は話さなくなる、話せなくなる、という事態になってきます。
長年連れ添ったご夫婦等、「今更、何を話すの?話すことなんか何にもないわ。ほとんど会話なんかない。」とおっしゃる方もあります。
話さなくなると、考えなくなります。
自分が何を感じ、どう思い、どう考えているのか、ということをきちんと言葉にしないと、本当は互いを理解できるわけはありません。
まずは、言葉にする、ということが大事です。
「話せない」、というのは、「話していない、言葉にしていない」結果でもありますし、極端に言うと、「考えていない」結果でもあります。
また、超少子高齢化の今、若い人の人手不足で立ち行かなくなる現実が待ったなしの中、外国人の方との接触はますます増えてゆきます。
どのようにきちんと日本語を話すのか、改めて日本語というものを日本人が見つめ直すよい機会なのかもしれません。
日本語の伝わりづらい点の一つとして、日本語の語順の問題もあります。
主語、動詞、と必ず来る英語等と異なり、主語が何やら、しかも動詞がいつになったら出てくるかわからない日本語は、わかりにくくなる要素が多くあります。
「~ああでね、~こうでね」、と続くと「誰が何をしたの?」となります。
「机の上にあるその赤い本を取ってちょうだい」を
英語の語順にすると、「取ってちょうだい、私に、赤い本を、上にある、その机の」というようになります。
短い文なので、どちらも語順が違うだけですぐに理解はできますが、思考の過程が異なります。
英語のように「取ってちょうだい、私に」とまず言われると、何か私に取るという行動をしてほしいんだな、と行動の準備をします。
ところが、「机の上にある~」から始まると、最後まで聞かないと、頼まれていることもわかりません。
行動の準備ができません。
語順というのは、思考過程。
この思考過程の差が、思う以上に日本語が行動の言語になりにくく、わかりにくいことにつながっているように思います。
主語、動詞、と「私が、~をする」という行動で思考する言語と、主語もなく、ぐるぐると周りから説明してから動詞が最後にくる言語では、伝わりにくくなるのも当然のこと。
情的な言葉は山ほどあり、豊かな感情の機微は表現できるけれど、反対に日本語は残念ながら行動の言語にはなりにくいもの。
反対に「私が~する!」ということを常に言う方があると、我の強い方だと敬遠したくなる気持ちもまだまだ強いものがあります。
しかし、敢えて言うなら、これからの時代、「どう考えているのか」言葉にしなければ、思考停止になります。
何をどう感じ、思い、考えているのか、きちんと語る、語る、語る。
語ることで、エネルギーも出ますし、互いの考えから次の新しいものを生み出す力も出てきます。
ほとんどの方が無言の会議みたいなムダな時間はやめましょう。
結局誰もが無責任になります。
自分は何を考えているのか、もっと語ってゆきましょう。これからの社会のためにも。